其は無垢なる祈り。其は切なる願い。


 目蓋の裏側さえも焼き尽くすような眩い払暁の光が止むと、暁美ほむらは気が付けば何処とも知れぬ空間に独りでいた。
 眼前には、何処までも続く無機質な白い荒野。地平線の上には、何処までも続く暗黒の空。
 一陣の風さえもなく、あるのかどうかすら定かではない無味無臭の大気。
 それ等が渾然一体となって作り上げた恐ろしい程の静寂が、この空間を支配していた。
 ほむらは無意識の内に両手で身体を掻き抱いていた。やや遅れて、自分が強烈な悪寒を感じていることに気が付いた。先程まで心を満たしていた暖かさが、嘘の様に消え失せている。
 原初的な恐怖が湧き上がってきた。まるで、世界にただ独りきりで取り残されてしまったような……

「やれやれ、こんな所にまで追いかけてくるなんてね。たいした執念だよ。いや……そうか。君もまた、時間を超える魔法の使い手だったね」

 インキュベーターの声がほむらの頭に直接語りかけてきたのは、彼女が心細さに誰かを求めて声を挙げようとした、まさにその時だった。

「ここは何処なの?」
「まだ何処でもないさ。強いて言えば、まどかがもたらした新たな法則に基づいて再編されている作りかけの宇宙、といったところかな」

 ほむらは改めて周囲を見回す。
 言われてみれば、天上の暗闇には無数の星々が瞬いていた。ともすれば、先ほどからこの身体を苛む悪寒は、真空に身を晒しているからなのか。だとすればもっと致命的な異常が身体に起きる筈なのだが、そのような兆候は一行に現れない。

「上を観てごらん。あれが、鹿目まどかの祈りがもたらしたソウルジェムだ」

 ほむらは声に導かれるままに視線を上げる。
 果てしない星々の海に、宇宙の闇黒よりもなお暗く醜悪な魔力の渦があった。

「その壮大過ぎる祈りを叶えた対価に、まどかが背負うことになる呪いの量が分かるかい?」

 ほむらが唖然とそれを見つめる最中、呪いの渦は傍にある天体を次々を飲み込みながら、加速度的にその体積を増していた。
 やがて星だけでは足りなくなったのか、禍々しく巨大な魔力の渦動は銀河へとその食指を広げる。だが、その勢いは一向に収まらない。

「ひとつの宇宙を作り出すに等しい希望が遂げられた。それは即ち、ひとつの宇宙を終わらせるほどの絶望をもたらすことを意味する。当然だよね」

 結局、自らの滅びにさえ一切の感傷を挟まずに淡々と言ってのけるこの生物のことを、ほむらは最後まで理解することは出来なかった。したいとさえ思わなかった。

「それじゃあ一緒に見届けようか。この宇宙の結末を」

 滅亡の渦が、遂に宇宙全体を歪め始めた。
 宇宙の終焉を、ほむらは為すすべなく見上げている。

「違う……まだ何も終わってはいない」

 ほむらは楯に手を伸ばす。それが行えるだけの魔力は、あと一回分だけ残っていた。最後に残った道しるべは、今もなお先を示し続けている。
 やり直すのだ。宇宙の闇さえも凌駕する真の暗黒が世界を覆い尽くす前に、全てを――

「また、やり直すつもりかい? どうせこうなると分かっているのに、それでも君は時間遡行を繰り返すというのかい?」
「そうよ」

 ほむらは破滅の産声に掻き消されそうなくらいに小さく吐き捨てる。インキュベーターの問い掛けに答えたというより、むしろ心中深くで何度も繰り返した自問自答に応えるかのように。

「なら、餞別代りに一つ忠告しておくよ。僕の見立てでは、鹿目まどかに集った因果の量は既に限界に近い。彼女の許容量では、あと一度も保つかどうか……それでも行くというのかい?」
「……それでもよ。私は、絶対に彼女を諦めない」

 ほむらは楯を掴む。
 それは、友を守りたいという願いが形となった彼女の決意の結晶。この祈りが砕かれるまで、彼女は時の牢獄で戦い続ける。戦いの先に待ち受けるものが何であろうと、決して挫けることなく。

「自ら生み出した因果に囚われて、在りもしない希望に縋り続ける……狂気的だね。君の在り方は、まさに純然たる狂気そのものだよ。実に人間らしい反応だ」

 インキュベーターが嘲笑う――彼女の決意を踏みにじるように――少なくとも、ほむらにはそう聞こえた。

「人類の思考は実に興味深い。君達の頭脳はとても高度な筈なのに、時として理性的な判断を誤ることがある。今の君のようにだ。その合理性からの逸脱を強要する志向のことを、君たちは感情と呼んでいる」

 中空に赤い双眸が瞬く。その次の瞬間、白い肢体を持つ小さな異星生物がほむらの前に出現していた。

「人の感情はね、矛盾の発露なのさ。意思決定の判断プロセスの際に、君達の頭の中では競合するあらゆる価値観同士が鬩ぎ合う。そうしてプライオリティの上位に昇った選択肢が、君達の意思……つまりは感情と定義されている。その一連の過程は極めて確率論的で、非合理的。でも、だからこそ、異なる価値観の間で育まれた感情の持つエネルギーは驚異的だ。非合理であるが故に合理を覆せる。矛盾を孕むが故に矛盾を超克することが出来る。僕達からしてみれば、全く出鱈目にしか見えない現象だけど、だからこそ熱力学第二法則さえも凌駕してしまえるだけのエネルギーを持っているんだ」

 朗々と語るインキュベーターの言葉は、どうしてか、ほむらの耳を捉えて離さない。無理もなかった。それは幾人もの魔法少女を教唆してきた抗い難い魔力的な言葉の羅列なのだから。

「例えるなら、それは雷だ。電位差によって放電現象が生じるように、君たち魔法少女の抱く希望と絶望の落差は、時間の矢を捻じ曲げるほどの莫大なエネルギーをもたらす」

 白貌の悪魔は、奇怪ではあるが同時に奇妙な程の流麗さを伴った言説で、ほむらの胸の内に巣食った小さな絶望の萌芽を刺激する。

「暁美ほむら。君の最後を予言するよ。君の結末は、まどかと同じだ。まどかがこの世界を虚無に堕としたように、君は君自身を虚無へと堕としめる。当然の報いだよね? だって、君がまどかを殺したも同然なんだから。君が因果を捻じ曲げた所為で、彼女はその存在そのものさえも失ってしまう運命の渦に囚われてしまったのだから」

 闇の中、爛々と紅く輝く眸がほむらを捉える。

「無限に時を巡回する中で濃密に熟成された君の絶望が、一体どれほどのエネルギーを生むのか……この目で確かめられないのが、僕には残念で仕方がないよ」

 その言葉は、絶命の甘い毒だ。
 希望の無い世界でその毒はもはや毒で在り得ず、少女の繊細な心の内でただの絶望として完成する。
 インキュベーターが表情を変えることなく会心の笑みを浮かべる。
 ほむらはなお強く盾を握りしめ、そして――

「……そうやって、総てを自分の思い通りに出来ると思っていやがんだな。クソッタレ」

 不意に、第三者の声が虚無の空間に残響した。
 ほむらが反射的に振り返る。そこに、居る筈のない者の姿を認め、瞠目する。

「騙されんなよ、ほむら。こいつはあんたが絶望することで得たエネルギーを元に、この世界を新たに作り変えようとしてやがるんだ。まどかの真似をして、今度は自分達に都合の良いようにな」

 紅の衣装を纏い、紅の槍を手に提げた赤毛総髪の少女がほむらを見て不敵に笑う。

「ハッ、どうしたよ? まるで幽霊でも視たような顔してさ」

 ほむらは己の正気を疑った。目の前に立つ少女は、救いのない現実に耐えかねた脳が見せる幻想だと。でなければインキュベーターの仕業かとも考えたが、彼もまた少女の存在に困惑している様子だった。
 だとすれば――

「まさか……本当に、貴女なの……佐倉杏子」
「おうともさ。アタシはあたし。それ以外の何に視えるってのさ?」

 口端を吊り上げて笑う仕種が妙に似合うこの少女は紛れもなく、かつてほむらと同じ時を生き共に闘った掛け替えのない戦友だった。

「……驚いたね。まさか君が生きていたとは思わなかったよ、杏子」
「いいや死んだよ。完璧にな。こればっかりは否定しようもない」

 佐倉杏子はあっさりとインキュベーターの発言を否定した。

「でもさ、呼ばれたんだよ。あの子にさ。全く、人使いの荒い神様だ。こんな無茶苦茶なことをする神様なんて、どんな聖書にも乗ってないよ。な、さやか」

 杏子の呼び掛けに応じるようにして闇が揺らぎ、やがて人の形が浮かび上がる。ひとつ。いや、ふたつ……

「いや〜、あたしは最初から信じてましたよ。あの子はここぞって時にとんでもないことをやってのけるって。まぁ、正直ここまでのことになるなんて流石のさやかちゃんでも想像付かなかったけど。ね、マミさんもそう思うでしょ?」
「ふふ……そうね。でも、可愛い後輩が神様になっちゃったんですもの、先輩としてはとても鼻が高いわ」
「あはは、流石マミさん。こんな時にも余裕を忘れない。そんな姿に痺れる、憧れるぅ!」

 場にそぐわぬ和やかさで談笑する二人の少女。美樹さやかと巴マミ。

「あなた達は……」
「君達は一体……」

 三人の魔法少女のその様を見て、事情が分からず当惑するほむらとインキュベーター。
 だが、彼女達はそれに答えることなく宇宙に広がる巨大な闇を眇める。

「……侵されていたんだ。犯されていたんだ。冒されていたんだ」

 佐倉杏子は現在を見つめている。

「為す術も無く邪悪に貪られていた。理不尽に、無意味に、ただ凌辱されていた。未来に繋がることなく、殺され続けていた」

 美樹さやかは遥か過去を見つめている。

「それは家族の明日を奪われた、少女の嘆き。
 それは友の明日を護れなかった、少女の怒り。
 それは邪悪に玩弄された、無数の少女達の叫びと祈り……だけど、

 その想いが――奇跡を呼んだのよ」

 巴マミは未来を見つめている。

「異邦の侵略者よ。その無貌に穿たれた、曠野の眼で篤と視なさい。
 あなたが陥れ、利用し使い捨ててきた少女たちの無垢なる願い、純潔の祈りがもたらした奇跡を!
 円環の理に導かれ、無限の時空より来たる存在が何なのかを――!」
「……ッ!?」

 そして、其れは来た。
 絶望に燃え堕ちた時の彼方――
 無限/無量/無窮の宇宙の彼方より。
 正しき希望をその胸に秘めて。

「……来たというのか。揃いも揃ってやって来たというのかい、君たちは」

 闇の地平線上に、感情を理解せぬ生物をしておぞましさを抱かせる程の希望を抱く、『彼女達』が居た。

 それは、魔法少女だ。
 無限/無量/無窮の刻の彼方より来た、
 無限/無尽/無垢の魔法少女だ。

 世界の総てを埋め尽くす闇に匹敵する、輝ける祈りを胸に秘めた魔法少女の大軍勢だ。

 傷一つ無い魔法少女が居た。
 血塗れの魔法少女が居た。
 隻腕の魔法少女が居た。
 盲目の魔法少女が居た。
 機械の身体の魔法少女が居た。
 両性具有の魔法少女が居た。
 獣の姿をした魔法少女が居た。
 人間ですらない魔法少女が居た。
 二つのソウルジェムを持つ魔法少女が居た。
 半身が魔女と化している魔法少女が居た。
 無数の使い魔を引き連れた魔法少女が居た。
 過去現在未来の武装で鎧った魔法少女が居た。
 双発の戦闘機を駆る魔法少女が居た。
 宇宙翔る艦隊を統べる魔法少女が居た。
 魔女と融合した魔法少女が居た。
 魔に堕ちてなお正気を失わぬ魔法少女が居た。
 神になった魔法少女が居た。

 かつて在りし魔法少女。
 今在りし魔法少女。
 来たるべき魔法少女。
 別の可能性の魔法少女。
 可能性すら無い魔法少女。
 時空の狭間を流離う魔法少女。

 円環の理に導かれ、時空を超えて馳せ参じた魔法少女の軍勢。
 此処に集う魔法少女の数だけ希望があり、それに比する絶望があった。
 そして、その誰もが絶望の淵にあって、それでもなお、その魂は希望を失いなどしなかった。
 絶望を理解しながら、絶望に屈する理由を見い出せなかった。

「なんてことを……鹿目まどか……君は!」

 インキュベーターの視線が、魔法少女軍団の最前衛に立つ少女を射抜く。

「君はたったひとつの街を……たった一つの世界を守る為だけに、無限に等しい数の少女達の骸を積み重ねたというのかい!?」
「――骸なんかじゃない」

 ヒトを超え――ヒトを棄て――神の領域に至った少女――鹿目まどかは、絶望を超えたその先を見つめている。

「それは家族の明日を守ろうとした、少女の祈り。
 それは友の明日を護ろうとした、少女の願い。
 それは因果に玩弄された、無数の少女達の叫びと嘆き。
 たとえ願いの代償が、この世に呪いを生むことだとしても……
 それでも、彼女達の信じた希望は、間違いなんかじゃなかった!」

 まどかが弓をつがえる。

「私の願いは、全ての魔法少女を絶望から救うこと。それが叶ったのだとしたら……
 希望が絶望を生むこの世界の因果を、私が……私たち魔法少女が、断ち切ってみせる!」

 どんな時も動揺の対極に立っていたインキュベーターの瞳に、在り得ないはずの焦りが灯る。

「在り得ない。そんなこと、在り得るはずがない……!
 人間にそんな真似が……そんな真似が出来るはずがないだろう!?」
「人間だから――魔法少女だから、出来るのよ」

 美樹さやかが剣を抜き放つ。

「あたしら魔法少女を舐めんじゃねえぞ、異星人様よお!」

 佐倉杏子が槍を突き立てる。

「この光射す世界に、あなたたち闇黒の棲まう場所は無いわ!」

 巴マミが銃を執り構える。
 無限の魔法少女達が生み出す無限の魔力が、巨大な魔法陣を宙に描く。
 そこから溢れる魔力。
 今までにないほどに爆発的で強大なエネルギーだ。

「識らないぞ、僕は!
 こんなエネルギーは識らない!」

 インキュベーターさえも狂乱させるほどの膨大な魔力の集中。
 だが、不思議と不安は無かった。
 今、無限の絶望を撃ち砕こうとするその力は、優しかった。

「真逆。鹿目まどか、君はこのエネルギーを得る為だけに、円環の迂路を超える為の円環……この大いなる円環を作ったというのかい!?
 だとすれば……この僕もまた、自らの因果のもたらす運命の輪に囚われていたのか――!」

 それは滅びをもたらす呪いではなく、命を育む無垢なる祈り。
 断絶し拒絶する絶望ではなく、享受し創造する切なる願い。
 炎の中から新たな命が芽吹くように。

「ティロ・フィナーレ・インフィニート」

 無限の魔法少女から解き放たれた無限の希望が、世界を昇華する――
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