希望無き世界に弓引くこと――それが、彼女の願いだった。


 遂に自らの願いを選択し、インキュベーターとの契約を果たした鹿目まどか。
 魔法少女となった彼女は、ある種の神々しささえ感じさせる所作で弓を引き絞り、その願いを解き放った。放たれた矢は過去と未来を超えて遍く世界へと降り注ぎ、全ての魔法少女を救済するだろう。
 だが、

「駄目だよまどか」

 インキュベーターの無機質な声が、少女の無垢なる願いを以ってしてもなお覆し得ない残酷な現実を、まどかの背に投げかける。

「君の願いは、魔女がこの世界に生まれ落ちる前に、その存在を消し去ることだ。その願いに特化した弓では、ワルプルギスの夜を倒すことは叶わない。何故だか分かるかい?」
「……」

 まどかはインキュベーターの問いに応えようとはせず、黙して災厄の魔女を見据えている。その背後に伏せる暁美ほむらをインキュベーターは振り返り、

「暁美ほむら。君になら、なんとなく想像がつくんじゃないかい? 幾度となく時を遡り、あの魔女と戦い続けた君になら」
「まさか……」

 最悪の想像が、最悪の結末が、最悪の絶望が、暁美ほむらの脳裏を過ぎる。
 因果を超越する“救済の願い”を受けてなお、傲然と存在するその異様の正体。それは――

「あの魔女も、まどかと同じだというの」

 感情のない生物が一切の表情を作ることなく肯定の頷きを返す。
 ほむらには、その無感動さが逆説的な嗜虐性を証明しているように思えた。

「そのまさかだよ。暁美ほむら。君がいくら時を繰り返してもワルプルギスの夜を倒せなかった理由。そんなのは簡単だ。あの魔女もまた、まどかと同じように因果を束ねる存在だったのさ」

 暁美ほむらが時を遡る度に、その因果の中心に存在する者の魔力が増幅する。
 考えてみれば、単純な話だった。むしろ、どうして今までその可能性に気が付かなかったのか。
 鹿目まどかとワルプルギスの夜。この二つの要因が重なったことで、暁美ほむらは時間の流れから逸脱することになった。
 それこそが、全ての始まりだった。
 因果の中心に存在したのは、まどかだけではなかった。因果の特異点は、最初から二つ存在したのだ。

「もっと早くに気が付くべきだったよ。因果の局所集中に、ごく普通の女の子が一人で耐えられるわけがなかったんだ」

 願望と絶望は等価である。
 願いを叶えようとするならば、対価となる報いを受けねばならない。望んだ願いの大きさに、釣り合うだけの絶望を。
 それこそが、魔法少女となった者が須らく背負うことになる宿業。
 暁美ほむらも、その例外ではない。
 鹿目まどかが彼女の希望の象徴であるならば、ワルプルギスの夜こそが彼女の背負った業――絶望そのものだった。

「御苦労だったね、暁美ほむら。君の努力は、全くの徒労に終わったようだ」

 今までにしてきたことの全てが無駄だった。
 それが、たった一人の少女を救う為に己の全てを擲って、幾度となく時間遡行を繰り返し、三千世界を屍山血河で埋め尽くした挙句、ようやく辿り着いた時の最果てで得た回答。あまりにも惨たらしい結論にして、簡潔なる要約。

「たとえ因果を捻じ曲げるほどの凄まじい魔力を以ってしても、目の前に迫った現実を変えることは出来ない」

 異邦の白い悪魔が、まどかの願いを受けてなおその威容を保っている最凶の魔女を前にして、何の感慨もなく断言する。

「そんな奇跡も魔法も、この世界には存在しないんだ」

 擦り切れ罅割れたほむらの心の器に、致命的な亀裂が入る。今まで必死に救い上げてきた望みが、そこから止め処なく漏れ出していく。

「無意味、だったの……」

 流すべき涙はとう枯れ果てた。絶望にさえ飽いていた。彼女の胸中には、もはや虚無しか存在しない。

「私のしてきたこと……すべてが……?」

 心の内に茫漠と広がる寂寥感が、染み出すようにゆっくりと全身を巡り始める。
 弛緩した四肢が、自明であるにも関わらず、未だにそれを拒絶するほむらの精神に、容赦のない事実を告げる。

 ――希望を抱くこと、それ自体が、間違いであったのだと。 

「そんなことない」

 それまで黙然と立ち尽くしていたまどかが、決然と否定する。
 暁美ほむらを時の牢獄に閉じ込め、彼女から永遠に明日を奪い去った闇を目の前にして、一歩も引くことなく。

「奇跡も魔法も、あるんだよ」

 絶望に対して真っ向から立ちはだかるその背中に、ほむらは胸を締め付けられる程の懐かしさを覚えていた。
 何もかもがあの時と同じだった。初めて魔法少女としての彼女に出会った、あの時と。いや、あの時よりもなお力強い響きが、その言葉にはあった。
 それを意識した途端、虚となった心の器に暖かい何かが注がれるのを、ほむらは感じた。この名状のし難い熱量のことを、果たしてなんと呼ぶのだったか。絶望を知り、夢も希望も失って、それでも諦めを踏破せんとするその在り方を、自分は何と呼んでいたのか。

「見ていて、ほむらちゃん。あなたの戦いが……魔法少女たちの戦いが、決して無駄なんかじゃなかったことを」

 ワルプルギスの夜に従えられた、数え切れぬほどの使い魔の軍勢。魔法少女に模られた彼女たちは、一様にその身を漆黒に染め、邪悪な哄笑を轟かせ、無分別な破壊を撒き散らしながら、街を練り歩く。
 罪深き冒涜の饗宴――そう形容するしかない絶望の渦中へ、何の躊躇も無しに、まどかは飛び込んでいく。
 直後、暁美ほむらの双眸が瞠目に見開かれる。

「な―――」

 彼女の眼前で、信じられない光景が広がっていた。

「無駄にしない。彼女たちの想いを。彼女たちの願いを」

 古の呪文を唱えるかのようにそう呟くと、まどかは掌を宙に翳す。すると無数のマスケット銃が虚空より現れ出で、彼女を中心に展開する。まどかはその内のひとつを手に取って、引き金を引く。放たれた弾丸に過たず射抜かれた使い魔は、光の雫となって大気の水面に波紋を残し、消失した。
 それを確認することなく、まどかは後ろ手に持ったマスケット銃で背後から迫る使い魔を見ることもなく銃撃する。反動を利用してグリップから銃身へ持ち替えると、横合いから襲い掛かってきた使い魔を力一杯に殴り飛ばす。
 旋転の勢いをそのままに後ろ回し蹴りへと繋げ、再度背後を狙う使い魔を蹴り飛ばし、新たに手にしたマスケット銃で次なる標的を狙い撃つ。
 瀑布の如く迫り来る使い魔を迎え撃つ為に、まどかは続けざまに、矢継早に、目にも留まらぬ速さで、数え切れないほどのマスケット銃を使い捨てながら、回り舞い続ける。
 瞬く間に無数の銃火が花咲いた。華麗に、苛烈に。大気が数多の波紋に彩られる。
 まどかの戦い方は、ほむらがこれまでに辿った耐え難い道程の中で見てきた彼女の戦い方のいずれにも当て嵌まるものではなかった。
 だというのに、あの戦い方は、ほむらが何度も何度も繰り返し目に焼き付けた、かつての憧憬を追懐させるものだった。
 枯れ井戸から湧き出た最後の一滴が、ほむらの頬を滑り落ちる。
 弾雨の中心で、怯むことなく堂々と立ち振る舞うその姿に、昔日の憧憬が重なる。
 孤独の淵にありながら、それでも人々を守る為に、たった一人で戦い続けた少女の姿が。

 ――巴マミ。彼女の高潔な意志を、まどかは受け継いでいる。

「遅くなってごめんね、マミさん」

 まどかが遊走を始める。魔弾の舞踏で追い縋る使い魔たちを蹴散らしながら、ワルプルギスの夜に向かう最短距離を全力で駆け抜ける。

「でも、もう逃げたりしない。もう何も怖くない。……マミさんと、一緒になれたから」

 悔悛とも取れるその言葉に、目には見えなくとも確かにそこに存在する誰かが優しく微笑んだような気がした。その慎ましやかな笑顔が、耳障りな哄笑とともに漆黒へと染まり、邪悪な道化役者に取って代わる。
 不意を突かれたまどかは、刃の如く鋭く尖った使い魔の腕に串刺しにされた。

「……ッ!」

 漏れ出た苦痛の呻きを合図としたのか、動きの止まったまどかに使い魔が殺到する。

「まど――」

 ほむらが叫ぶよりも早く、刃の嵐が吹き荒れる。
 転瞬の後、細切れとなった使い魔の残滓が吹雪く中心に、方膝を付いて脇腹を押さえるまどかの姿があった。その周囲には、鮮烈なほどに白い剣が幾本も突き立っている。

「痛い……すごく、痛いよ」

 目の前の剣の柄を握り、立ち上がろうとするまどか。痛みに伏せる顔に、隠しようの無い苦痛が滲んでいた。
 それは、暁美ほむらが時間遡行を繰り返す原因となった表情と全く同じものだった。
 否、同じものである筈だった。

「すごいな、さやかちゃんは。こんな痛みに耐えて、戦っていたんだね」

 苦痛に歪む横顔には、確かに悲壮と後悔が入り混じっていた。だが、今のまどかの目に絶望の闇はない。
 代わりに宿るのは、握り締めた刀身のように曇りのない純粋な願い。自分以外の誰かを想う、何人にも冒すことの敵わない純潔の輝きを持つ祈りだ。

「分かるよ。あの時の、さやかちゃんの気持ち」

 傷だらけになりながら、それでも誰かの為に戦い続けた少女がいた。
 彼女の負った傷跡と決意の深さを、まどかは決して忘れない。

「今ならきっと分かる。今だから、きっと理解できる」

 見えない誰かに支えられるようにして、まどかは立ち上がった。その顔には一切の苦痛が存在しない。脇腹の傷はいつの間にか癒えていて、血の跡すら消えている。
 まどかが立ち上がるのに連動して、周囲の剣がまるで意思を持ったかのように独りでに宙に浮き、縦横無尽に四方八方を駆け巡る。中空を断つ刃は轟然と大気を揺らし、瞬時に剣の竜巻を形成する。無数の刃の織り成す暴風が、周囲の使い魔を一掃する。
 やがて風が凪ぐと、辺りに使い魔の姿は無くなっていた。
 もう、まどかとワルプルギスの夜を隔てるものは何もない。
 まどががワルプルギスの夜に向かって歩みだす。その最初の一歩に踏みしめた大地が割れ、巨大な槍が出現する。
 巨大な槍はまるで意思があるかのようにワルプルギスの夜に向かって一直線に伸び、その中心を貫いて動きを拘束した。と同時に、まどかがほんの僅かに前のめりによろめく。見えない誰かに、背中を後押されたようにも見えた。

「ありがとう、杏子ちゃん」

 それから猛々しく巨大な槍の上を疾走し、大きく跳躍する。放たれた矢の如く真っ直ぐに、ワルプルギスの夜の正面に躍り出る。
 耳を覆いたくなるような魔女の哀しい笑い声が、まどかの耳朶を打った。

「もういいんだよ。もう誰かを恨まなくても。悲しまなくてもいいんだよ」

 聖母を思わせる慈愛に満ちた声が、魔女の哄笑をそっと掻き消す。

「あなたの絶望は、わたしが終わらせる」

 まどかが頭上に手を振り上げる。
 巨大化した無数の銃と剣と槍が虚空から出現し、ワルプルギスの夜を包囲する。
 そして、

「ティロ・フィナーレ―――」

 まどかの号令とともに、

「―――リレーヴォ!」

 決して明けることの無い夜の帳が撃ち払われた。
 朝焼けの鮮烈な輝きが、世界を白く染め上げる。
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